その人は、上の洋書部門で働くフリーター。後ろ姿はシャンプー&リンスのCMに出てきそうなサラサラロングヘアーで、振り返ると端正な顔立ちにした...金八先生…。
社会人になりたてのころ、東大正門前にある小さな出版社の営業部門にいた。営業といっても、電話注文を受けて梱包して発送するという、思い描いていた世界とは離れた事務色=グレーな日々。お昼の休憩時間は隣の隣にあるアンデルセンで菓子パンを2つ買って、東大の敷地にあるベンチで食べながら独り光合成をしていた。
少し仕事に慣れてきたころ、たったったと階段をおりるサンダルの足音が耳に入ってきた。いつもの音に急に初めて気づいて、目を上げたら、きれいな顔立ちの金八先生、もといシマダさんが、梱包した洋書を集荷台に置いて、振り向いてニコ、としてくれた。
なぜだか忘れてしまったけれど、その日はいいお天気で、定時で退社した私とシマダさんは皇居のお堀のまわりを歩いていた。
「ここ、高校のころよく走っていたんですよ」と私。
「そう…」とシマダ氏。
「ここ、パレスサイドビル、父の働いている会社で」と私。
「そう…」とシマダ氏。
…話が...盛り上がらない…
いかん、これはいかん、なにか会話がつながるような話題を、、、
シマダさんは澁澤龍彦をこよなく愛し、同人誌でエロティシズム香る小説を書いていた。
立ち並ぶビルのシルエットが黄昏のなかで美しかった。だから、思わず訊いてしまったのだ。たぶん、「そう…だな…」くらいしか反応ないだろうけれど。
私「…...恋と愛、ってどうちがうんでしょうね……」シマダ「え””っ、ぜんっぜんっ違うでしょ!!!」私「(わわわ、びびびっくりしたー)ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。で、どうちがうんですか?(輝く瞳)」シマダ「だって、全然違うでしょ!」私「(そ、そうなんすね、さすが先輩!)どどどんなふうにちがうんすか(おせーてくれ先輩!!)」
シマダ氏は哀れんだような目になり、ゆっくりとこう教えてくれたのだった。
「あのね、鯉と、鮎は、全然、違う、でしょ?!」
・
・
・
その後どうしたかはさっぱりと憶えていないけれど、たぶん、東西線にのって泣きながら帰ったに違いない。
恋は鯉で、愛は鮎……。そうと言えなくもない…….かもしれない。だって、恋も愛も色んな形をしているから。
甘いようでほろ苦くてちょっとしょっぱいあの日を思い出しつつ、バレンタインその2につづく。